空っぽにはなれない

 雲ひとつ無い秋晴れの空を、ソファーから一人で眺めていた。

 アパートの前に建っていた2階建ての家が解体され、すっかり更地になったせいもあり、空の高さと青さが際立っている。

 何も無い空を見ていると、頭の中も空(から)なったような気がしたが、「今日は何しよう」「読んでない本がまだあるんだよな」「録画したテレビでもみようか」「せっかく晴れているんだから外に出ようか」と心の声が聞こえてきて、それが気の所為だということに気付かされる。

 先週、神社で見かけた斑柄の猫の映像が見えた。膝にのって来たときの足の感触や重さ、頭を撫ぜたときの角張った頭蓋骨の感触が蘇ってくる。

 無意識につけていたテレビから、七五三で賑わう神社のニュースが聴こえてきた。猫の映像から、境内に人がたくさんいる映像に切り替わって、そして雲散していった。

 

 心の声を初めて聞いたのはいつだろう。そしてその声が自分の声だと気づいたのはいつだろうか。

 僕の一番古い記憶は、家族で県立の大きな公園へ行ったときのものだ。死んだ祖父母もいる。敷物の上に重箱を広げてみんなでつついている。近くの池にはフラミンゴがいる。足の長いピンクの大きなその鳥が嫌だったのだが、その時の自分は「嫌」という感覚をどう感じていたのだろう。

 今でも「嫌」を表現する言葉の綾を、僕は多く知らない。もしかしたら、ずっとずっと未来になってから、適当な表現の仕方が見つかるのかもしれない。

 

  アパートの前の道で子供が遊んでいる声がした。下階の庇が邪魔で子どもの姿は見えないけれど、想像の世界の中を、その顔も歳も性別も知らない子供たちが、確かに駆けて行った。